[自作小説]彼岸にて4

小説

持ってきた水筒を取り出し,冷えた水を2秒ほど,心臓が脈打つように,ごくんっ,と飲む.水は喉の血管を急激に冷やし,すぐさま胃へと流れ落ちるのがわかる.のどの渇きが満たされ,僕は生を実感した.
加えて,マイナス1度された森はとても心地よかった.日影がカーテンのように僕を包んでくれ,近くで鳴いているような,それでいて遠くで鳴いているような蝉の声が,BGMとして森全体にやさしく響いていた.この空間は僕を歓迎も,拒絶もしない.ただそこにあるだけだ.それを僕はとてもありがたいと思った.

本社の裏手に誰かいた.僕は近づいていった.老翁だと分かったからだ.彼も僕に気づいた.
「こんにちは」
「こんにちは」
小さいながらも土砂降りのような音を立てる滝.僕は老翁の隣に腰かけた.
老翁は小柄で,わずかな頭髪は白で染められ,レンズの厚い眼鏡をかけていた.額に刻まれた皺といわゆる一般的に想像される老人然とした服装のせいで,僕はなんだかいたたまれなくなった.だが,老翁の瞳は若者と同じく見えた.体の中で唯一,瞳だけが皺から逃れられるのだろう.彼は老人がもつ’優しい顔’をしていた.
「君もこの滝を見に来たのかい?」
はい,と僕は答える.
「いつも見に来ています」
蝉の声は遠くに響き,代わりに水の落ちる音が絶えず体を震わせた.
「私も若いころはいつもこの神社に来て,この滝を見ていたよ.小さな滝だけどね…でもね,当時の私はそれで満足だったろうと思うよ.小さくて結構.これを知るのは私だけだぞ,って.そして今も変わらず満足しているよ.弱った老体を無理いわせてまでまた見に来るほどにはね.」
彼の穏やかな声が空気に溶ける.
僕は共感を覚え,うれしくなる半面,悲しくなった.僕らがマイノリティだということに.
相も変わらず流れる滝を老翁は数秒眺め,ふ,と笑みを浮かべた.
「年をとっちゃいかんな.言葉がするりと手のひらから零れ落ちて,もう二度とその言葉が見つかりやしない.まるで滝だよ…適当な言葉が見つからないが,見捨てられないで済む,が近いような気がするね.スケールが自分に合ってたといえばいいのかな.この滝は,この神社は,この森はそういう場所だよ」
(つづく)

コメント

タイトルとURLをコピーしました