[自作小説]彼岸にて8

小説

「それからというもの,私は彼に対してのみ徐々に本当のことを言えるようになっていった.まずは些細なことから打ち明けていった.好きな食べ物は,好きな小説は…
こんなことを打ち明けるのすら私には一苦労だった.恥ずかしかったんだ.私には各個人が持つパーソナルスペースへの出入りはこうした地道な一歩一歩からしかこなすことができなかった.でも彼はなかなか多くを語ろうとしない私を辛抱強く待っていてくれた.依然と言動が変わっても受け入れてくれた.私がこれまでの人生でトラウマを抱えてきたことは話していないが,彼はその手のダークな話は全く聞こうとしなかった.
私は口には出せなかったが,ふと彼の優しさに気づくたびに「ありがとう」と心の中でつぶやいた.彼は私の恩人だった.」

老翁は一呼吸おいて僕を見た.
「君もいつか会えるよ,仮面を外して語り合える人に」
「はい」
「もう昼食の時間だ.年寄りの話を聞いてくれてどうもありがとう.私たちは話すことが生きがいなもんでね.これでちょっとは長生きになったかもしれんな.お先に失礼するよ」
「こちらこそいいお話を聞かせていただきました,ありがとうございました」
「じゃあね,敦彦君」
「ええ,馬場道夫さん」

止まっていた時計の針は急激に回転し始め,12時を少しすぎたところまで動いて,やっと辻褄を合わせてくれた.
滝はなおもごうごうとうなりをあげる.滝は元の水にあらず.

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